私が重富にいた頃、叔母は駅長夫人、もしくは駅助役夫人として、夫と娘の3人で、優雅な暮らしをしていた。私は父の兄弟姉妹の中で1番もの分かりの良い人だと常々思っていた。
後年私が京都に居を構えた頃、叔母が手紙の中で、昔の父のことを書いていた。
叔母が女学校へ進学しようとしていたときだった。
祖母が北九州にいた父に、叔母の進学について学費の援助をしてもらえないか、と相談した。すると父の返事が振るっていた。学校へ通うのに汽車で通うのか、それとも自転車で通うのか、と父は祖母に聞いてきた。汽車で通わせると返事すると、それでは援助できないと言う。理由を聞くと、本人が苦労しないで楽な汽車通学をして学費を出してくれと言われても援助する気になれない、援助して欲しければ自転車で通うなど苦労すべきだ、と言うのが父の考えだったようだ。
祖母はその返事を父から聞いて以来2度と相談することはなかったそうである。
もう1つ、叔母から手紙で教えてもらった話は祖父のことであった。
目が不自由になった父は、母が何もかも面倒を見ていた足腰の弱った祖父を、常々何とかしなければと思っていたに違いない。母に楽をさせてやりたがったのだ。
長兄に命じて祖父を叔母の家へ連れて行かせ、面倒を見るように言ったそうである。いわば、“祖父のたらい回し”というところか?
父は祖父から恩恵らしい恩恵を受けていない、だから兄弟姉妹は平等に祖父の面倒を見るべきだと考えたらしいのである。しかし、祖父は住み慣れた重富へしきりに帰りたがっていた、と叔母は書いている。
私が鹿児島を離れてあちこち放浪している間に、田舎ではいろんなことがあったのだ。知らせてくれたあの叔母も、もういなくなってしまった。